吉木りさ
“初めてパリに行ったとき、街中の道路の清掃をしている人間が全員、黒人であることに驚いたことを覚えています。 彼らは西アフリカの最貧国、マリなどから出稼ぎに来ている黒人で、びっくりする程、安い給料で働いて、パリ郊外のスラムの簡易ホテルに住み、ベッドをびっしり並べた部屋にすし詰め状態になって暮らしているとのことでした。 低賃金と劣悪な生活環境にもかかわらず彼らがパリに来て働いていたのは、故国の生活がもっと貧しかったからです。 パリの通りを歩くフランス人は、道路の隅でホウキを使って、黙々とゴミを掃いているこれら黒人を完全に無視していました。 まるで人間ではないかのように・・・ 実際、彼らは道路の端の黒い影にしか見えませんでした。それを見て、私は「自由、平等、友愛」というフランス共和国のスローガンはただの悪い冗談でしかないことを理解したのでした。 その後、日本に帰国して、日本で公園やビルで掃除をしている人間が全員、日本人であるのを見て、ホッとしたことを覚えています。 フランスにはマグレブと呼ばれる北アフリカのモロッコやアルジェリアから来たアラブ系移民も沢山いました。 彼らは、主としてルノーやプジョー、シトロエンなどの自動車工場で働き、フランスの自動車産業を支えていました。 北アフリカから来たアラブ人も西アフリカから来た黒人も郊外のビドンヴィルと呼ばれるスラムに居住していたのですが、 居住環境は劣悪で、道路が舗装されていないため、雨が降ると道はぬかるみになり、パリ中心部に通勤するスラムの住民は泥んこ道を歩くための靴とパリに着いてから穿く綺麗な靴の2足を用意していたといいます。 60年代の終わりには不衛生な環境のせいでチフスが発生します。 「フランスのような先進国でチフスのような伝染病が流行するのは、国の恥だ」 という批判の声が高まり、 フランス政府はようやく重い腰をあげて、バンリューと呼ばれる郊外にHLMと呼ばれる低所得者向け住宅を建てて、移民労働者を収容するようになりました。 70年代の半ば、知り合いのアルジェリア人に頼まれて、パリ郊外のジュヌヴィリエに住む彼の兄のアパートを訪れたことがあります。 ジュヌヴィリエには、メトロの終点のポルト・ドゥ・ラ・シャペルからさらにバスを乗り継いで行く必要があったのですが、バスの乗客は私も含めて全員、有色人種でした。 唯一の白人はバスの運転手で、この運転手は人種差別意識丸出しで、有色人種の乗客を怒鳴りつけていました。 そうして辿りついたHLMの団地が建ち並ぶジュヌヴィリエは、日本人がイメージする花の都パリとはおよそかけ離れた荒廃した空気の漂う町でした。 それでも昔のビドンヴィルと較べるとずっとマシだそうですが、移民が一般のフランス人住民から隔離されて、このようなゲットーに閉じ込められていることにショックを受けたものです。”
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ふむ
(via odakin)
コンビニのアルバイトは中国人ばかりだし、近郊の鶏農家で卵を拾い、上信越の果物プランテーションで苺を摘むのは「研修生」という名の低賃金労働者。どこが違うんですかね
(via tamejirou)

